昭和56年12月29日   朝の御理解

                    
  信心乃心得                        「我子の可愛さを知りて神の氏子を守りくださる事を悟れよ」


 久留米の初代石橋松次郎先生がまだお若い時、ミツオ先生が御長男ですね。二代の教会長ミツオ先生がまだお小さい時、ある冬の夜大変に寒い晩だったそうですが。寝まれる時にミツオ先生を自分のかき巻きの中に抱き込んで、そしてその自分の肌に子供をこう抱いて子供と言う者はこんなにも可愛いもんだろうかと思われた瞬間にね。 お広前の方からね『それが神の心ぞ』と言うお声が響いてきたと言う事です。ここまでは誰でも分かりますよね。今日の御理解もやっぱそうです。我子の可愛いさを知って神様の氏子を思うて下さる心を悟れとね。だから問題はそれが分かるわけ。けれども悟れよとある。知れよぢゃない。
 この辺の所がね、ただ子供が可愛い、本当に子供とはこんなに可愛いもんだろうかと思うほどに可愛い。それこそ目の中に入れても痛くないと言うほどの可愛がり方、それではしかしいけないですね。 悟る事になると、言うならば本当な事が分かると言う事ね、放任主義ではいけませんけれども本当な事が分かって放任できれる心こそ、私は親が子を思う本当の切実心が、本当に子供に伝わって行く時だと思います。
 この辺の所がね、信心は本当な事が分からなければ結局本当から本当のものを求めていくと言う事なんですけれどもね。ただ可愛い可愛いとね。それこそ寒いからと言うてはそれこそ着せ過ぎるようにこの着物を着せるね。寒いならば表を一辺通り走っておいでと言うのも親心ですね。
 寒かろうと一枚余分に着せるのも親心です。けれどもどちらが本当かと言うね。寒い寒いちガタガタ震うとったらどうするかね。表ば一辺通り走っておいでと言うような所を私本当な親心とはそれぢゃなからなけれはいけんのぢゃないかと思う。それよりももっと素晴らしいのはいわゆる放任して置けると言う事ですね。
 放任ち言うて子供をかまわんち言う事ぢゃないですよね。子供を育てると言う事は放任しとったっちゃ子供は育ちますよ。けども問題はその育て方がですね。神様に願い縋り神様にお任せしたね。言うならば昨日の御理解ぢゃないけれどもね。本当に一瞬一瞬間違いのない生き方をしたいね。それはどう言う事かと。        例えば義理とか人情とかね。まあ普通で言う道徳的な考え方の生き方がいけないわけぢゃないけれども。それには言うならばおかげは伴わないね。神様の働きそのものを大切にしていくと言う生き方。それを私は成行きを大切にする事なんだよ。成行きをいよいよ尊ぶ生き方をする事だと言うふうに昨日は説きましたよね。
 子供の上にでもそうです。成行きを見ながら尊ばせて頂きながら神様のおかげでお育てを頂くと言う生き方にならなけれはいけない。昨日は竹葉会でしたから、もう昨日は一人一人全部発表してもらいましたが、もう本当皆さんのお話一人一人のお話は素晴らしかったです。
 中で私は嶋野悌子さんの発表を聞かせて頂いて、今日の朝の御理解を地で行く生き方はこれだと言うて皆さんにも又改めて昨日の朝の御理解を聞いてもらった事でございましたが。上の子供の成績が悪い、けども神様にお願いさせて頂いておりましたら、すすんで丸少へ出かけてくれるようになった。しかも丸少丸少と言うて行くから、これで勉強もせんでよかぢゃろかとまあ思うくらいであった。 ところが今年はクラスで十番以内のおかげを頂いておったと言うのである。親がガダガタ言うのも何もイラン。子供ながらも心を神様に向けると言う事の素晴らしい事。ところが二番目のは参ろうち言うたっちや絶対参らん、神様に勉強もせん、成績も良くない。  けれども思いますね。ここで御用が例えば勉強しよう勉強しようと言うて勉強させるのではなくて、この人もやっぱり神様の願いがかけられてあるのだ。行くゆくは神様のお役にでも立たせてもらう氏子にお取立て頂くのだと、その過程としてのただ今と思うたらそれが心配にもならん。むしろ御礼が言えると言う発表をしましたよね。だから必ずやこの子も合楽に心を向ける時が来るだろうね。  そこに出ける出けない、もうこげん出けんならどげんなるぢゃろか。先々が心配と言うのぢゃなくて、もう神様に言うなら任せておる、その生き方からほんなら上の子の体験を通して二番目の子供もそう信ぜれる生活、生き方ね。
 もうこれなら絶対言うならばこれは子供を育てると言う事だけではない。もう一事が万事にこの生き方で行く事がね、完璧な言うなら一瞬一瞬を生きていく事なんだとね。例えば今日はお食事の時に御飯が一杯足りなかった、隣から一杯借りて来てくれ、てんなんてんて言わずに、はあ神様が今日は一杯ひかえておけよと言いよんなさるなあと言う頂き方なんですね。
 何かたらん、うどんなってん作れとか買ってこいとかぢゃなくてね。足りないなら足りないで言わば神様がね。今日は修行さして下さるんだとか今日はもう神様はこれでいいんだと言うておられるんだと言う頂き方なんですね。そこには思いもかけないすぐそのあとによそからおご馳走が来たとか頂いたと言う事になる。
 どうでしょう腹一杯食べとったらそげなおご馳走は頂けんぢゃない、そう言う働きが必ず起こってくるです、この成行きを尊ぶと言う生き方には。だから問題はその時のふんなら足らん事は分かっとるぢゃないか、どうして炊かんぢゃったかと言うふうな事ぢゃなくてね、足りないなら足りない事が言うならば御都合だと言う、そこを有難く受ける生き方。                    その悌子さんの子供が出ける出けんは別として、出けない勉強しない、合楽に向うてこないと言う事もおかげだとこう言ってます。次には子供が合楽に向かうようになった、本当に親としては合楽合楽と言うて丸少丸少とばっかり言うていいのだろうかと思いよったら成績は十番以内に上っておったと言うその体験を通しておるから、もう二番目の子供の事もそう言うふうに頂けれるわけね。
 いわゆる放任主義に見えて放任主義ではない。神様を信じての頂き方。足りなければ足りないでね。そこを有難く受けていく。広ければ広く狭ければ狭く水の流れに不足はあらずと言う生き方なんですね。そう言う生き方にはね、間違いない次の神様の働きが起こってくるですね。
 はあほんの一足遅れ、もう腹一杯食べたとにどう言うほんならおご馳走が来ても食べられんぢゃないの。食べよったらかえってこんだ胃をこわす事になるでしょうね。そう言う生き方をね。合楽理念は説くのですから、そう言う生き方を本気で身に付ける、いよいよ成行きを大切にすると言う生き方ね。
 神様が氏子可愛いと思うて下さるのはね。久留米の石橋先生が頂かれたように、それこそ寒い時にかい巻きに包みこんで抱き締めながら、子供ちはこんなにも可愛いもんだろかと思うた、その思いがそのまま神の思いぞとこう仰っしゃる。だからその思いがね。どう言うふうな形に表われてくるかと言う事に本当の事、本当ぢゃない事になるのです。
 はあ寒かろう、はあ着物ば着せよう。さあ寒か、ふんなら表ば一周り回ってこいと言う生き方もあるしね。だから、いよいよ本当な事を分からせて頂く為に成行きを見ていくが、子供の上にでも成行きを大切に尊んで行くが一番いいです。
 子供がこの頃勉強せんごつなった、いっちょん覚えんごつなった、学校から注意を受けたと言うて、もう親が気をもんでおる。そう言うこっちゃおかげにならんです。成程気をもむから神様にお願いもするけども、そんな事ばお願いするような事ではまあだ本当に信心が分かっとらん証拠です。
 悌子さんの私は生き方が昨日の朝の御理解の本当に人間が一瞬一瞬を完璧に生きる生き方と言うのは、そう言う生き方が全ての点にですよ。経済の面にでもね。健康の面の上においても、子供育成の上においても人間関係の全ての上においてもそう言う生き方を身に付けてね。そこをいよいよ尊び又は大切にしていくと言う生き方を身に付けていくと言う事になってくるとですね。
 私はここん所を誰でもこの御理解を聞きゃ分かる事だろうと思うのですけれども。子供が可愛くないと言う親はおりません。だから本当に教えの通りだなあと子供が可愛いように神様も私共の事を思うておって下さるんだなあね。
 そんならその神様の本当の思いと言うものを悟れよとあるのです。親は自分が可愛いくないのだろうかと、こんなに難儀しょっとに、それ泣き面に恥のような事が起こったりして、神様も神様だと言うような事ではなくてね。そこに親の心が分かった時にです。いよいよもっておかげを下さろうとしておるなあ。お徳を下さろうとしておるなあと悟られた時ね。その事に対して御礼が言えれるね。   その御礼の言えれる心をね、何とかしてね。もう本気で一生懸命朝参りも一生懸命の修行もです。そこをその心を聞かせて頂く事の為に私はおかげを頂かなきゃいかん。
 昨日、秋永文雄先生の家内が発表しておりました。先生が具合の悪い時に古川先生から大変お祈り添えを頂いておったから古川先生が具合が悪いと言う事を聞いて、それから言うなら福岡からですからね。主人の時も一生懸命に朝参りをしてきましたが兎に角古川先生が全快されるまで朝参りをしようと決めたち言う、ところがドッコイなかなか退院が…二百何十日かでしたからね。そげんいっまっでん入院するとは思わなかったわけ。
 ところが神様にお願いしとるもんだから、やっぱそれを貫き通したんです。そしたらね、古川先生が退院されるまでと思うておったら、もうやめようと言うてもやめられんものを心の中に頂いたと言う発表をしてましたね。
 一生懸命そしてそう言うふうな修行さして頂いてるとです。本当に信心の有難さが分かってくるわけです。教えを頂く事の…だから信心を頂く事、教えを頂く事の有難さがね。合楽通いにならなければ心は開けんですね。成程初めは分かりませんからね。もうそれこそ一から十までお願いしますお願いしますでもいいです。おかげを受けるです。
 けれども五年経っても十年経ってもお願いしますお願いします、ばっかりで信心の分かる事の喜びとか心が開けていく楽しさとかね。修行の有難さが分からんね。それこそ良江さんぢゃないですけれども、まあ古川先生のおかげで本当な信心が分かり出したと、もう朝参りはやめられないと言うようなね。
 信心のね。言うならば確信に触れていく信心を一つ頂かせてもらわなければ、成程親の心が分かる。神様の思いが分かると言うても本当の本当な事が分からなきゃいけんね。この寒かつに着物も着せん。足袋どころか表ば走ってこいち言うと思う事あるけれども走ってみると、それこそ一枚の着物は脱ごうごつなってくるように芯からポッポつ助かってくる。言うならば喜びと言うものを分かる時に初めて親の心の奥が分かるわけですよね。「どうぞ」